浄土宗 法玄寺

開山の由来


山は、足利尊氏の六代先祖の足利義兼の正室であった北条時子姫の菩提のために建立されたと伝えられています。
 北条時子姫は北条時政の娘で、足利義兼の室として足利に住んでいました。北条時子姫は、夫の義兼が鎌倉に滞在中腹部がふくれて妊娠したような状態になりました。
ところが側女の一人が義兼に、北条時子姫が密通した嘘をついたため、義兼は北条時子姫を疑うようになりました。北条時子姫は「死後わが身体をあらためよ」と遺言して自害しました。時に建久七年(1196年)のことです。
 死後、北条時子姫の死体を調べたところ、腹部には蛭(ヒル)が充満していました。北条時子姫が山野に出かけた時に飲んだ水が原因であったと言われています。義兼は大いに悔やむとともに、北条時子姫をとむらい法名を「智願院殿」としました。義兼の後妻の子である義純は、非業の死をとげた北条時子姫を悼み、寺院を建立することにしました。これが当山であり、北条時子姫の法名にちなみ智願院法玄寺と名付けられることになりました。

北条時子姫の墓北条時子姫の死については、長い年月伝承とされてきましたが、北条時子姫の墓は見あたりませんでした。ところが昭和六年、無縁祭壇を作る工事を始めたところ、鎌倉時代のものと推定される五輪の塔が発見されました。伝承が事実であると分かったのです。この五輪の塔は無縁祭壇の側に安置され、「お蛭子さま」と呼ばれ、足利市の重要文化財になっています。


再 興


建立後の四百年間には、当山も盛衰があり、徳川幕府が始まる頃、寺は荒廃していました。この頃、慶長十一年(1606年)に足利の地が幕府の直轄領(天領)となり、小林十郎左衛門がこの地の代官になりました。
 十郎左衛門は、この由緒ある寺が荒廃しているのを見かねて、再興することに全力を注ぎました。建立の時には、当山は真言宗の寺だったようです。しかし再興後は浄土宗となり、寂蓮社照誉芳陽上人が中興第一世になりました。これ以降現在まで、浄土宗の法灯が続くことになります。

御朱印寺


小林十郎左衛門の子である彦五郎は、父の後を継いで代官となりました。彦五郎は当山第五世の宝誉随天上人と力を合わせ、渡良瀬川から水を引き、足利のより高い北の地域へと流れる用水を完成させました。これは通常の川の流れとは逆に、低地から高地へと流れているので「逆さ川」と呼ばれ、当山の白壁の塀の前を今でも流れています。この現存する用水ができたことで、水不足で悩んでいた足利の北部にある本城や北郷の稲作の生産は、飛躍的に増加しました。
この用水の完成とその由緒により、慶安元年(1648年)当山は徳川幕府より十五石三斗の御朱印を下附されました。

小林十郎左衛門 彦五郎の墓
これにより、御朱印寺として公儀の待遇を受けることになり、住職は大名と同じく駕籠に乗ることが許されました。当山には戦前まで駕籠が残されていました。また御朱印寺になると門を朱色に染める事が出来ました。
当山の赤門は御朱印寺であったことを表すものです。


明治の再建


明治十八年、本堂裏より出火し、堂宇や什物などが灰燼に帰しました。この時、当山第二十一世の輪道上人は燃えさかる庫裡に入り、足に大けがを負うものの過去帳の一部を運び出しました。
火災の後、輪道上人はただちに檀家の人たちと共に本堂の再建に着手しました。明治二十年のお盆には上棟式を行い、二十二年には落慶法要を行うことができました。これが、現在の本堂です。この本堂の西側の切り妻には、火災に遭わないようにと、火を鎮める水玉を持った龍が描かれています。

鐘楼も本堂の竣工から十年後、明治三十二年に再建されました。こうして現在の堂宇が、明治の中頃にはその姿を現すことになります。

本堂に書かれた水玉を持つ龍


戦後まもなくの当山全景

梵 鐘

鐘桜と梵鐘
 用水を完成させた代官の小林彦五郎は、寛永五年(1628年)に一族の菩提のために鐘を作り、当山に寄進しました。その銘は、足利学校第十世庠主の龍派によるものです。しかし寛文四年(1664年)の火災により堂宇は全焼し、この鐘も損傷しました。元禄元年(1691年)に旧鐘を改鋳して、旧銘とともに新銘を刻しました。この新銘は足利学校第十四世庠主の久室によるものです。

 太平洋戦争中、足利各地の多くの寺の鐘が供出されました。当山の梵鐘も供出の対象になりましたが、考古学者の故丸山瓦全氏は足利学校の庠主の銘を有する梵鐘は重要文化財に値するとして、保全を主張されました。丸山氏のお陰で供出を免れ、当山の鐘は毎年の大晦日には、除夜の鐘として350年前の音色を響かせています。


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